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第3回 ネオンサインな日々・其之壱

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第3回 ネオンサインな日々・其之壱
~稲葉亘快氏(元宣弘社社員)が語る小林利雄と屋外広告の世界 PART 1

岩佐陽一

 「僕はこういうアンティークというかガラクタみたいなものが好きなものだから……大体においてマニアックだからね。こういう写真も全部ネタで、なんだかんだあったらファイルしているんだ。自分の人生の足跡っていう訳でもないんだけど(笑)」
 そう言って、宣弘社OBの稲葉亘快氏が開いた手製のアルバムには、在職中の懐かしい思い出と、昭和30~40年代という“時代”がいっぱい詰まっていた。
 本コラムでも再三にわたって書いてきたが、宣弘社とは本来、所謂広告代理店である。こう書くと天国にいる小林氏のお叱りを受けそうだが、やはり連続テレビ映画の制作は、あくまでも副業でしかない。
『月光仮面』や『隠密剣士』というテレビ史に名を留める番組を作ったが故に、近年ではその切り口で語られがちだが、広告という本来の業務においても、宣弘社は語られるべき幾多の偉業を残している。
稲葉氏お手製の貴重なアルバムに眠っていた写真とご本人の証言をご紹介しつつ、今回と次回では、宣弘社の宣弘社たる歴史をご紹介していこう。

column3_1 稲葉氏が入社したときの宣弘社の主たる広告代理業務は、屋外広告がメインとなっていた。小林利雄社長が、“銀座の夜を明るく照らす男”との異名を取った のも、ちょうどこの時期だ。その頃の同社は大別して屋外広告部に交通広告部、それに『月光仮面』などテレビ映画を制作する、宣弘社プロダクションに分かれ ていた。稲葉氏はその、屋外広告部に配属された。それだけに、テレビプロデューサーとしての小林利雄ではなく、屋外広告の先駆者たる同氏をよく知っている。
「この写真は小林社長が作ったものではなく、海外へ遊びに行ったときに撮った写真です。これこれ、タイムズ・スクウェア(米・ニューヨーク)。これなんか 全部、写真に撮ってきて、デザインを模倣して国内で売り込んだ(笑)。さらにそれを、他の会社がマネした。後年、社長と呑んだときに、“いや稲葉君、あの 頃はよかったよなぁ。考えてサッと行って話をしたらすぐにまとまって、すぐ仕事になる。考えて持って行きさえすれば、売れた時代だったんだから”と当時を 懐かしがっていましたね」
 当時の小林氏の辣腕ぶりが窺える証言だ。
 さて、本連載のプロローグで、急逝した阿久悠氏の追悼文を書かせて頂いたが、そこに氏の描いた小林社長のイラストが掲載されていたことを憶えておいでだ ろうか? かのイラストの初出は、宣弘社の社内報「宣友」の第1号。同紙の創刊に尽力したのが、誰あろう稲葉氏である。
「とにかく文化事業が好きだから(笑)。やるにあたっては、深田(公之/阿久悠氏の本名)君をはじめ、部内のみんなに声をかけて。僕が音頭を取って、実際にみんな動いてくれた訳です」

column3_2 元来、アーティスト嗜好の小林社長は、こういった社内の文化的活動には助力を惜しまなかったという。
 「社内報以外にも演劇活動もやりました。文士劇にヒントを得て、第一回目の旗揚げは俳優座劇場(六本木)で、二回目は千代田公会堂で……その辺の糸口を つけてから僕はやめたんです。そういった文化活動の一端はね、利雄さんがお好きなんです。予算のことで話に行けば、ただ(お金を)出してくれるだけだった から(笑)。[何10万か予算を頂きたい、お願いします]と言うと、その場でポンと(笑)。それから社員演劇会に、社長や重役もお客で呼んで、お弁当もお 出しして。平生、お世話になっているスポンサーも呼んで、お弁当を出しながら、こっちは(舞台の)上で芝居をしている訳(笑)」
 なんともはや、今日的な会社の概念からすると、まるでお伽噺のようなエピソードといえよう。
 そういった、自由且つクリエイティブな社風が、先の阿久氏を筆頭に、歴史に名を残すアーティストたちを輩出するに至った所以だろう。

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