第7回 ラジオの時間・其之壱
~大場徳次氏が語る小林利雄とラジオの時代
岩佐陽一
『月光仮面』、『隠密剣士』といった本邦TV史に残る名作を創出したせいか、宣弘社といえば、これら懐かしのTV番組か、本家本元である屋外広告で語 られることが多い。だが、広告代理店業務の対象媒体には「ラジオ」というメディアがある。宣弘社はラジオにおいても画期的な番組を世に送り出している。
その代表格が『フレッシュイン東芝 ヤング・ヤング・ヤング』だ。マエタケこと前田武彦を司会に、女性アシスタントと二人で送るこの番組は、前田の軽妙洒脱なトークとアシスタントとの掛け合 いが評判を呼び、わずか20分の月~金曜日のベルト(帯)番組ながら、大ヒットを記録。前田を一躍スターダムにのし上げたのはもちろん、後のディスク ジョッキー番組や『オールナイトニッポン』に代表される深夜放送の魁となった。この番組の担当だった大場徳次氏が当時を振り返る。
「これは東芝さんのスポンサー枠だったんです。それで、東芝さんの担当だった私も一緒に企画を考えて。最初、タイトルは『ヤング・ヤング』でした。それを 私の上司だった松本美樹さんが[これじゃパンチが足りない。ヤングをもうひとつ付けよう!]と言って『ヤング・ヤング・ヤング』になったんです。この番組 は当時の若者から絶大な支持を受けましたね」。
その大場氏は、昭和6(1931)年4月4日、静岡県磐田市出身。立命館大学経済学部を卒業後、昭和32(1957)年に宣弘社プロダクションに入社。 しかし何故、立命館大学の、しかも経済学部を卒業した大場氏が当時TVやラジオ番組を広告代理・製作していた同社を選んだのか?
「東京に行きたかったんです(笑)。あと、ゼミの先生に[これからの時代、広告代理店という職業は面白いかもしれないね]と、後押しして頂いたこともありまして」。
大場氏の入社早々の仕事は、『月光仮面』の撮影現場。照明を手伝ったり、エキストラで参加したり。そうこうしているうちに『遊星王子』(58年)がス タート。大場氏は、『遊星王子』の16mmフィルムを詰め込んだ手提げ袋を両脇に抱え、連日ネット局の支社がある銀座を歩き回ったという。
「現場から(『遊星王子』の)16mmフィルムが届くでしょう? でも、当然のことながらCMが入っていないわけです。だから自分でCMのフィルムを糊で貼り付けるんです。そうして完成させたフィルムを地方局に届けてい ました」
今では想像だにしない地道な作業だが、当時はそれが当たり前だったのだ。
そんな大場さんは、東芝担当として本社配属となり、宣弘社初の本格的宇宙特撮番組『光速エスパー』(67年)を担当することに。
「ところがこれが大失敗で(苦笑)。というのは、自社で『ウルトラマン』(66年)並みの特撮をやれると思っていたんですね。でも、いざ始まったらどう にも上手くいかない。それで円谷プロのスタッフさんに応援を頼んだりして、結果的に当時のお金で3000万円も(予算を)オーバーしちゃいまして。社長か らは大目玉を喰らいました。みんな知っているもんだから、社内の視線も冷たいんですよ(苦笑)」。
だが、大場氏はこの直後、本邦TVアニメ史に名を残す……どころか、今なお放送中の大ヒット作の誕生に携わることに。
毎週日曜日18:30の国民的アニメ……そう、あの『サザエさん』だ。誰もが知っているTVアニメ『サザエさん』は宣弘社の広告代理でスタートしたのだ。
「当時、東芝さんの1社提供でフジテレビさんで19:30~20:00の枠をお願いしたんです。でも、[そこはどうしても空けられない]と。それで、18:30~19:00の枠になったんです」。
そして、ご周知の通り以降『サザエさん』は41年にも及ぶロングランとなった。いや、まだ終わっていないので、それ以上だ。
「企画自体は制作会社のエイケンさんからですね。当時の社長だった村田(英憲)さんが、[『サザエさん』がいけそうだ]とおっしゃって。ペラ一枚の企画 書を用意して東芝さんに持ち込んだところ、ほぼ一発でOK! になったんです。その企画書は今でも保管してあります」。
当初は、先述の松本美樹氏と二人で担当する予定だったが、諸般の事情により松本氏が早々に現場に立ち会えなくなった。 「結局、それから約18年間、番組を担当していました」(大場氏・談)
残念ながら今は宣弘社が広告代理を担当していないものの、『サザエさん』は、『ウルトラマン』や『柔道一直線』(69年)に並ぶ、宣弘社が広告代理した国民的大ヒット番組のひとつに数えられる。
大場氏は現在、このときの縁もあって通信カラオケにアニメーション映像を配給するお仕事を手掛けられている。
「宣弘社で培ったノウハウが今に生きている感じですね。ありがたいことだと思っています」と語る大場氏の笑顔に、宣弘社社員としての誇りと威信を垣間見た思いがした。