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連載コラム小林利雄伝
序章〜 プロローグ
 
追悼・川内康範先生〜『月光仮面』の原作者が語った小林利雄
岩佐陽一

 川内康範先生の訃報を耳にしたとき、自分の中にポッカリと大きな穴が空いた気がした。
 昨年、小林利雄氏のご逝去を知ったときにもそれを感じたのだが、今回その穴がもはや塞ぎようもないほど広がった事実を自覚した。
 それは自身にとっての“本当の昭和の終焉”を意味していた。
 昭和42年生まれの私が初めて目にした川内康範原作作品は、アニメーション版の『月光仮面』、『正義を愛する者 月光仮面』(72年)だった。続く『愛の戦士 レインボーマン』(72年)は、幼な心にも強烈な印象を残した。どちらもそれまで観てきたヒーローものとは明らかに一線を画していた。その一線を画す部分こそが、“康範先生の存在”と知るのは後年の話だが。
 大人になって文筆業が生業となった私は、大好きな『レインボーマン』の本を編集・執筆する機会に恵まれ、ついに憧れの康範先生にお会いすることができた。
 私の目を見据える、先生の力強い視線が今でも鮮烈に網膜に甦る。その際、おこがましくも『月光仮面』や『レインボーマン』で、先生が目を見て主演俳優を決めていた逸話を思い出した。
 かくしておめがねに適えたのだろうか……。当初は2、3行のコメントを頂戴するだけのお約束が、かなり長目の寄稿をいただける運びとなった。FAXで頂いた原稿ではあるが、今でも大切に保管してある。
 その後、『ネオンサインと月光仮面』の取材の際、自身は立ち会えなかったものの、テープ起こしという形で久々に先生に再会することができた。
 その中で先生は、小林利雄氏をして次のように評されている。
 「彼は戦後の荒廃した町に、ネオンで夢を与えようとして一所懸命頑張った。これはもうあの人じゃなきゃできぬことをやった訳ですよ」
 まさに匠は匠を知る、の精神だ。
 そして、『月光仮面』については以下のように述懐されている。
 「小林さんはTBSに、できる限り制作費を出してほしいとかけ合った。僕は新東宝から西村俊一氏を引き抜いて、現場のスタッフを集めた。そんなことでどうにか番組が始まった。これがまぁ戦後最大の視聴率を取った。一方で、月光仮面のお面をかぶった子供が屋根から落ちたとか、出る杭は打たれるで、批判が出てきた。僕は子供が段々軟弱になることを非常に恐れていたから。むしろ暴れてくれたほうがいいと思っていた。とにかく“憎むな、殺すな、赦せ”というのが定義だから、これさえ守っていけばいい……これさえ残ればいいんだ。そのためにやったんです。いろんな人が手伝ってくれて……俺ひとりで作ったんじゃねぇんだ。みんなが力を貸してくれたからできたんです」
 “生涯助っ人”を公言して憚らなかった先生らしいお言葉だ。
 当の小林氏は、先述の『ネオンサイン〜』の取材の際、次のように語られている。
 「TBSとしては10万円しか出せないよ、と。“それでやってください”という訳。10万円じゃ正直、できないんですね(笑)。でもまぁ、“やりましょう”ということになって。それで川内康範先生に相談して出来上がったのが『月光仮面』です。いやもう、先生のお陰でできたようなもんですよ」
 天上で再会したお二人は今ごろ、月光仮面に代わるまったく新しいヒーローのアイディアをけんけんがくがくと戦わせているのかもしれない。
 今はただ、天国の康範先生と小林利雄氏のご冥福を祈り、ひたすら合掌あるのみである。

 
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