鈴木清スペシャルインタビュー

 

1958年2月24日(月)――『月光仮面』放送開始!
……そこから本邦TVヒーローの歴史が幕を開けた……!!
昨年来よりの『月光仮面』誕生50周年記念プロジェクトの大トリとして、本作を始め、宣弘社ヒーローたちの主題歌や音楽を数多く手掛けた、ベテラン中のベテラン、小川寛興御大にお話を伺った。

『月光仮面』『豹(ジャガー)の眼』
『快傑ハリマオ』『隠密剣士』音楽

小川寛興スペシャルインタビュー
取材・構成/まついえつこ

鈴木清

 

――『月光仮面』の音楽を手掛けられることになったいきさつをお聞かせください。
小川 子供向け番組以前にはラジオの仕事と平行して、帝国劇場でミュージカルの作曲や指揮をやっていました。その後、帝国劇場を辞めてラジオやTVの世界に移ったんです。以後、TBSやフジテレビ、NET(現・テレビ朝日)からお仕事を頂きまして、放送と映画の音楽をやるようになりました。その一環で、子供向け番組もやらせて頂いた訳です。
 『月光仮面』の曲はまず、主題歌と子供達の歌(「月光仮面は誰でしょう」)を作って。録音する際は、当時、銀座にあった宣弘社さんの会社の2階で、5人くらいの編成のオーケストラを使って録ったんです。主題歌を作ることになり、“月の光を 背にうけて”という詞だったもので、「月の砂漠」をイメージして作曲をしたんです。そうしたら(川内)康範先生や監督の船床(定男)さん、主演の大瀬康一君が大変気に入ってくださって、それぞれに歌ってくれたんですよ。それからキングレコードでやるようになり、三船浩さんが主題歌(「月光仮面の歌」)を歌ってくださって。子供達はキングレコードの音楽プロデューサーの長田(暁二)さんが合唱団を連れて来てくださいましてね。
――主題歌というのは、三船浩さんが歌った曲のほうが先なんでしょうか?
小川 ほぼ同じ時期です。
――一般的になったのは「月光仮面は誰でしょう」ですよね?
小川 そうなんですよ。主題歌のほうが残らなくて(笑)
――小川先生のイメージでは、三船さんの歌(「月光仮面の歌」)のほうが主題歌だったんですね。
小川 えゝ。その認識で作りました。それで、タイトルバックに子供の歌を流そうと言うので、そちらを副主題歌のつもりで作ったんです。ところが、そちらのほうがヒットしてしまって(笑)。
 その後に続く『豹(ジャガー)の眼』(59年)は歌は何もなかったですね。その次の『快傑ハリマオ』は長田さんのアイディアで、どうしても三橋美智也さん(故人)のために曲を作ってほしいとおっしゃるので、加藤省吾さんに歌詞をお願いして。それで、三橋さんに合わせて、なるべく高い音を使うように作りました。
――歌詞が先だったんですね?
小川 はい。先でしたね。
それにしても『月光仮面』はよく、宣弘社の2階で録音したものだな……と(笑)。
 撮影自体も小林(利雄)社長(当時)のご自宅を使っていましたしね。
 大瀬君(祝十郎探偵)の事務所というのが小林家だったんです。どくろ仮面のアジトは、その家のガレージで撮影して(笑)。
――『隠密剣士』も『月光仮面』も主題歌はもちろん、音楽も名曲ばかりですよね。
小川 えゝ(笑)。自分でも気に入っています。
――いずれもすぐに短時間に出来たのでしょうか?
小川 えゝ。そうしないと間に合わないので(笑)
――船床監督から“こういう感じの曲がほしい”といった、そういうご注文はあったのでしょうか?
小川 いえ、特にはございません。全部僕のフリー。任せてくれましたね。劇伴(劇中音楽)はよく監督と相談しましたけど。そうでないと作れませんので。
――作曲は主にどこでされますか?
小川 もちろんここ(自宅)で。
――やはりピアノを弾きながら作るんですか?
小川 ピアノで弾いていたら間に合わないので、いきなり楽譜に書いていました。これはありがたいことに、服部良一先生の内弟子時代に、全部先生のスコア(総譜)を見せてもらって音を聞いたりなんかして、自然に覚えたんです。
 何も教えてはくれないんです。で、僕がカバンを持って。昭和23(1948)〜29(1954)年までやりました。それで、内弟子と言っても殆ど先生と一緒ですから。奥さんよりも僕の方が先生と一緒にいる時間が長いくらいで(笑)。
――内弟子というのは一緒に暮らすということなんですか?
小川 そうです。ですから、亡くなった越路吹雪さんとかも知り合いになっちゃったという訳なんです(笑)。
――いきなり楽譜を書かれたんですね。
小川 えゝ。服部先生の場合はスケッチを書いて、僕らがスコアに直したんです。スケッチといって、4段の高音部、中音部……なんてことを書いてくれるんですよ。それを全部スコアに直すんです。ですから僕はもうそういう風にしないで、いきなり書いちゃうんです。
 父が食料品店を経営していたんです。それで僕は、何故か父の仕事を継ぎたくなくて……長男なんですけど(笑)。それが嫌で出させてもらって。歌うのが好きだったんです。徴用工として沖電気に行っていて、そのとき知り合った方に、立松房子さんという声楽家をご紹介頂いて、藤原歌劇団に入りまして。その歌劇団の中で歌謡曲を歌うことが好きな者が僕の他に二人いまして、“服部良一さんが音楽を教えてるよ”と言うので行ったんですよ。そうしたら先生が“お前うちへ来い”って言うんです。それで習いに行って。たまたま僕が童謡を作曲したのを見せたら、“お前は歌うよりも書いたほうが良いよ。うちへ来い”と。それから先生のご自宅に内弟子として入ったんです。家から自分の布団を持ち込んで(笑)。
――どこかで作曲の基本というのは勉強されたんですか?
小川 いえいえ全然。服部先生の仕事を見て覚えたんです。ですから服部先生のヒットした「東京ブギウギ」(48年)以来のものは全部知っています。出来上がったときは僕に聞かせてくれるんです。“こういうのが出来たがどうだ?”って。僕の他に二人ばかりいましたけど、結局僕だけが残りましたね。
――先生のそういう音楽の才能というのは、ご両親から受け継いだものがあるのでしょうか?
小川 ないでしょうねぇ(笑)。全然関係ないんですよ。父は食料品の小売店の店主だから。お客様が来ると、食事をしているときでもなんでも立たなきゃいけないんです。
 それが嫌で(笑)。ただ単純に“玄関がある家がほしい”と思って出ちゃったんです。
――『月光仮面』や『快傑ハリマオ』など、なんとなく先生ご自身の気持ちに少年らしさというか、少年の気持ちが分かるということがあるのでしょうか?
小川 どうでしょうねぇ……? 皆さんのお陰で作っちゃった感じですね。無我夢中ですよそのときは。
――それまでにTVヒーロー自体、前例がなかったので大変だったのでは?
小川 そうですね。最初は10分番組だったから、康範先生もよく“早く曲を書いてくれ”って(笑)。録音のときには康範先生も立ち会ってくださってね。
――どのような編成で録音されたのでしょうか?
小川 トランペットとサクソフォンとドラムでしょう? それからピアノとフルートだったかな?
――ストリングス(ヴァイオリンやチェロなど)は入っていなかったんですか?
小川 ストリングスは入れられないですよ。予算がないし、部屋に入り切らないですから(笑)。
――『快傑ハリマオ』の主題歌(「快傑ハリマオ」)を歌われているのは大御所の三橋美智也さんですよね? こちらはどういう経緯で決まったのですか?
小川 僕は分からないんですよ。なぜか長田さんが加藤省吾さんの歌詞が出来たときに“彼の歌を聞いててくれ”と言われて。高音が綺麗でしょう? 三橋さんは。おそらく、三橋さんにしても初めてだったんじゃないですか? 歌謡曲以外を歌うなんて。
――よくOKしてくださいましたね?
小川 それはもう長田さんのお力ですね。
――三橋さんの前に、子供が歌った曲などはあったのでしょうか?
小川 いえ、ありません。最初から三橋さんです。確か『快傑ハリマオ』の中に「タドン小僧の歌」とか「南十字星の歌」とかありましたけど、それらは近藤圭子さんが歌いました。そういうもの(挿入歌)だけですね。
――『快傑ハリマオ』の歌はすぐに出来たんですか?
小川 はい。もう間に合わないんですよ(笑)。『月光仮面』も『仮面の忍者 赤影』も数分で作りました。作り易かったですよ。特に参考にしたものもありません。
――なんでそんなにすぐに出来ちゃうんですか?
小川 結局ね、楽団が先に集まっちゃっているんですよ。日にちが決まっちゃっていて。ですから〆切に間に合わせなければいけない。こういう仕事というのは早く書かなきゃならないから(笑)。
――どうしてもアイディアが出ないときはありましたか?
小川 おそらくなかったですね。だって、寝られないんですもの。寝たら間に合わないから(笑)。
――何かコツのようなものはあるのでしょうか?
小川 そうですね、散歩しているときなどにたまたまサビのところが出てきたりします。お風呂入っているときとか。そういうときにメモなんか書いたりして。それは服部流なんですよ。
――所謂インスピレーションですね。
小川 服部先生もちょっと浮かぶとメモを数字で書くんですよ。それで家に帰って来て作るというスタイルです。ドが1で、レは2みたいに数字で。だから、電車の中で書いていてもお金の計算をしているみたいでしょ(笑)?
 ですから、丁度東京駅から西荻窪駅まで揺られている間に、「青い山脈」の頭のところがちょっと出来たそうです(笑)。数字で書いてね。
――先生ご自身が映画が好きで……といったことはありましたか?
小川 映画というより歌謡曲は好きでしたね。ですからよく、レコード屋さんの前で立ち聞きなどをして(笑)。当時は渡辺はま子さんとか小林千代子さんの歌などを聞いていました。もう本当に服部先生のところに内弟子に入って可愛がられて、どこにでも行ったということは……仕事を覚えたということで。それから色々な人と知り合いになって、仕事が拡がっていった感じですね。
――大ヒットを実感されたのは?
小川 歌が流行ったときです。あとは後年、「快傑ハリマオ」がカラオケで歌われるようになってからですね。放送当時は宣弘社もそれで特に儲かってはいないというお話でしたし(笑)。当時はもう、間に合わせることに必死でしたので(笑)。
――大変貴重なお話をどうもありがとうございました。

レッドバロン
現在、小川寛興先生の名曲の数々はキングレコードより発売中のCD「あのころのテレビ 主題歌ベスト」(価格:\2,000.-[税込]/商品番号:K-KICW-5005)にて聴取可能。『月 光仮面』をはじめ、『豹(ジャガー)の眼』、『快傑ハリマオ』、『隠密剣士』等々代 表的な作品の主・副主題歌をほぼ網羅している
 
(2009年 11月14日)
 

Profile
おがわ・ひろおき:作・編曲家。1925年3月5日生。東京都新橋出身。'43年に大倉高等 商業学校中等科卒業。藤原歌劇団合唱部に入団。立松房子、薗田誠一らに師事。その後 、作曲家の服部良一の内弟子となり、'50年に独立。帝国劇場のミュージカルの作曲及 び専任指揮者を経て、主に映画、ラジオ、TV番組の作曲家として活躍。代表作はTV番組 『月光仮面』(58年)、『七色仮面』(59年)、『快傑ハリマオ』(60年)、『隠密剣 士』(62年)、『おはなはん』(66年)、『仮面の忍者 赤影』(67年)、映画『大忍 術映画 ワタリ』(66年)など。'65年、倍賞千恵子の「さよならはダンスの後に」で第 7回日本レコード大賞作曲賞を受賞。'67年には中村晃子の「虹色の湖」が空前の大ヒ ット。他、第2回童謡大賞、芸術祭優秀賞、紫綬褒章、勲四等旭日小綬賞などを受賞。