田村正蔵スペシャルインタビュー

 

『月光仮面』(58年)を生んだ、本邦TV界屈指のエンターティナー=宣弘社が送った真夏の夜の悪夢――『恐怖のミイラ』……!
 あれから48年後の今夏、全14話を監督した辣腕=田村正蔵氏が、当時、日本全土を震撼とさせた“TV界始まって以来の恐怖”の真髄を語る……!!

『恐怖のミイラ』監督
田村正蔵スペシャルインタビューPART2
取材・構成/岩佐陽一

田村正蔵

 

――オープニングの、あの女性の悲鳴はどなたがやられていたのか、憶えてらっしゃいます?
田村 あの悲鳴を叫ぶ人がいなくて……確かベテラン女優さんだった気がします。
――全然この手のもの(児童向けTV映画や特撮番組系)に興味がない、知り合いのお母さんなんですけど、50代後半ぐらいの。やっぱり一番憶えているのは、『恐怖のミイラ』が……当時恐くて一番印象に残ったっておっしゃってますからね。
田村 希望も目標もない物語ですからね。ミイラがパトラ姫(三条[條]魔子)を慕って彷徨う――そのミイラを取り巻き、うごめく人間達を“恐いぞ! 恐いぞ!”と撮り続けるのです。辛かったです。仁丹さんもよく我慢して下さったと思いますけど(笑)。

恐怖のミイラ

永劫の刻を経て甦ったミイラは、恋い焦がれた女性・パトラを追い求め、大都会の闇を徘徊する……世にも恐ろしいミイラの物語はやがて、世にも哀しいラブストーリーへと様相を変えていく……

――そうですね、仁丹さんの売り上げに繋がるとは思えないですよね?『快傑ハリマオ』ならまだしも(笑)。あれはやっぱり小林(利雄)社長がやりたがられたんですか?
田村 いや、あれはね、仁丹の当時の宣伝担当。常務だったかな? その方が西村さんの“夏の番組でホラーものをやりませんか?”と提出したこの企画に一発で、“面白い、いけ〜〜!”ってノッちゃったもんだから、その下の人たちもあまりとやかく言えなかったみたいですね。
――武田(薬品工業)さんもそうですけど、仁丹さんもすごいですよね。今だともう、回収とか二次使用とか、そんなことばっかり優先になってる訳ですけど、そうじゃなくてもう、“面白いもの優先”みたいな。
田村 そうですね。やっぱりそういうことでは、番組途中でそういう口出しはなかったですね、みんな。時代といえば時代なんでしょうけど。やっぱりストレートに“作る側は任せたよ”と。“だからちゃんと作ってくれよ”という姿勢でしたね、スポンサーさんのほうも。
――今では考えられませんけどね。
田村 今はねぇ……やっぱりいろんな形で口を出す人が多いですけど。
――スポンサーさんの在り方自体が違いますよね? 根本的なスタンスが。
田村 そう、根本的に違いますね。昔は企業のトップの実力者がテレビ企画の決定にタッチしていましたから。ストレートで純粋ですよ。

恐怖のミイラ

印象的なミイラの左目はピンポン玉製だった……!! 言われてみれば、確かにそう観えるものの、これも48年目にして初めて明かされるスクープといえよう!

――でも、思うんですけど、結果的に武田さんなんかもそうなんですけど、自分なんかも当時観ていて「タケダ、タケダ、タケダ〜〜♪」の歌が耳に焼き付いちゃってるじゃないですか? だから優先的に武田さんのものは想い入れがあって買っちゃったりする訳ですね。C1000TAKEDAとかも(笑)。長い目で考えると、タケダさんの戦略は正しかったと思うんですけどね。
田村 そうなんだと思いますよ。すぐに答えを出さなきゃならないという業界になってるんでしょうねぇ。
――それをやってると作品が長続きしないというか、残らなくなっちゃうと思うんですけど。
田村 うん、まぁ、それはそれで(苦笑)。
――それを田村さんに訴えても仕方ないんですが(苦笑)。
田村 今の大きな企業の形として、担当者が社内における実力者じゃないから、ハッキリ言って視聴率を気にしたり、予算の心配をしたり、上層部の顔色を見たりしなければなりませんから。
――それを考えると、本当にすべてのバランスがよかったんですね、その頃は。
田村 そういう意味では段々テレビ自体がもう、“そのとき面白ければいい”っていう形になって。予算の問題もありますけど、すっかり現場が無抵抗になっちゃって。特にドラマはね。まぁ、これはやっぱり時代の流れで。だから今、ドラマは自己主張のある映画に戻ってきてますよ。テレビのドラマが段々衰退して、観客は映画に戻っていく。
――ところで、脚本の御手俊治さんというのは、西村俊一さんのペンネームですか?
田村 そうそう、彼のペンネームで。でも、実際に脚本書いたのは中田勇さんという、西村さんの友人ですね。
――そうだったんですね! 中田さんとはその後特には?
田村 そうね、それから後ね、何回かは会ったんですけど、ずっと疎遠になっちゃったなぁ。もうねぇ、あれ以来……もう45年くらいになるのかな?
――正確には48年ですね。基本的にその中田さんと田村さんのお二人で、喧々諤々して作られたんですか?
田村 そうですね。彼が書いて、こっちでまぁ相談を受けて。それでまた彼が書いて。
で、西村さんにOKもらって……“いいよ”って。で、やったんですね。
――悲恋の話に持っていく辺りはすごいなぁと思うんですけど、あの発想は?
田村 う〜〜ん、特別にその、これを基にしてという、そういう基本になるようなものはなかったんだけど、話し合いをしているうちにあゝなっていったといいます、若い頃よく観たフランス映画のムードが意識の下にあったのでしょうかね。
――やっぱり田村さんの資質がすごい生かされてる訳ですよね?
田村 どうでしょうかね(笑)。『恐怖のミイラ』は全14話を私ひとりで監督しましたが、映画バカの私としては“ミイラ”を遠い過去から再生させながら、彼が持っていた“パトラ王女”に対する慕情以外に新しい希望も現世での生活も与えてやれなかったのが残念で、平成5年頃でしたか? ビデオ映画の制作を始めた頃、“ミイラ映画の決定版を作りたい”と、実力派のK監督に相談して、当時、テレビの特番ドラマを書いていた脚本家のM氏と1年ばかり構想を練ったのですが、ついにまとまらず……残念ながら企画倒れに終わりました。 
 “ミイラ”は過去の世界、即ち霊界から戻って来る訳ですから、単に“面白いドラマを作ろう”という我々の勝手な相談には乗ってくれなかったのでしょうか――?
 今にして思えば、『恐怖のミイラ』の撮影のときには、実際に霊能力を持った方々が多勢レギュラー出演して下さいましたし、霊界の話や仏教の話等も伺いました。この方々のお陰で私もミイラと仲間付き合いができたのかもしれません。
 霊界とお付き合いするには、それなりの礼を尽くした姿勢がなければ、相手にしてもらえないのかもしれませんね。

 
PART1はこちら
(2009年2月)
 

Profile
たむら・しょうぞう:監督・プロデューサー。1924年12月25日生。大阪府出身。'46年に綜芸プロダクションに入社。東映京都撮影所で助監督を務めた後、'58年、宣弘社プロダクションに入社。『快傑ハリマオ』(60年)にて監督に昇格。以降、『恐怖のミイラ』(61年)や『隠密剣士』(62年)でメガホンを取る一方、武田薬品工業や三洋電機のTV-CFの制作に携わる。'67年、プロデューサーとして宣弘社に移籍。『光速エスパー』(67年)や『闘え!ドラゴン』(74年)などの作品をプロデュースした。現在も映像製作者・プロデューサーとして活躍。近作に映画『ポチの告白』(09年)、DVD作品『むじゃら』(08年)がある。